二話 遺跡の里6(ⅱ)

 目を逸らした途端、幻妖の殺気がほとばしった。ルーシェは後退る。隙を窺っていた幻妖が、好機を逃さず躍りかかった。気配を感じながら、けれどルーシェは目をつむった。

 別にいいか――と、そう思った。死ねるのならば本望だ。どうせ叶いはしないのだが。

 巨体が右の肩口にぶつかってきた。焼けつくような熱が弾けた。衝撃で、ルーシェは弾け飛ぶ。地面に体を打ちつけられた瞬間、肩で痛みがひらめいた。うめいて、肩を抱えこむようにして体を丸めた。
 一瞬我を忘れかけるほどの痛みに、己の肩を見る。真っ赤に染まっていた。血の間から生々しい肉の色と、あふれる血の中に白い骨がのぞいているのが目に痛かった。
 低いうなりに目を上げると、幻妖の鋭い牙が並ぶあぎとから血が滴った。獅子の牙に肩を抉られたのだ。

 心臓の鼓動にあわせ、焼けつく痛みを訴える肩を握り締める。あふれようとする苦痛を口の中で噛み殺し、ルーシェは立ちあがった。
「こんなことしたって、何にもならないのに」
 情けなく声が震えた。異形の獣は間合いの外で、警戒の態勢に戻っている。様子をうかがう幻妖へと、ルーシェは一歩足を踏みだした。より幻妖のうなりが低くなる。

 自分が今手を下さなかったとしても、駆けつけてくる騎士たちの手によって、明日か明後日にはこの幻妖は殺される。だからルーシェがしていることは、単なる感傷でしかない。
 でも、どうしても今は手を下す気にはなれなかった。
 幻妖は殺される。それは幻妖だからだ。正しい道を選べなかったから。

 正解を選ぶことができなかった。それは否定しない。
 でも正しくないということは、間違っていることと同じ意味なのだろうか。たった一つだけアタリ(正解)を持つクジのように、先が赤く塗られたもの以外はすべてハズレ(間違い)なのか。
 だとしたら、正しい道とは何なのだろう。なにが正しかったのだろう。それしかなかった。その道しかなかったから、それを選んだのだ。それを間違っていたとは思いたくなかった。
「どうしたらよかったんだろう?」
 自分と同じ道を選んだものにふれてみたくて、また一歩距離を縮めたとき、幻妖が吠えた。後ろ足が力強く地面を蹴る。ルーシェの頭をめがけ矢のように突き進んでくる幻妖を、悲しい気持ちで見つめた。

「ブヒッ!」
「ルーシェ……ッ」
 声とともに重い衝撃が腰にぶつかってきて、ルーシェは諸共に地面に投げだされた。倒れこんだときに肩を強打して、痛みに息がつまる。
「……のっ、ばかが!」
 声もなくうめいてルーシェは、絞りだす怒声に痛みにくらむ目をあげた。顔を真っ赤にしたディンが、ルーシェを睥睨していた。ルーシェはおそれいるよりまず驚いた。子どもらしい表情の豊かさとは無縁なディンの、怒り狂った苛烈な顔に、こんな表情もできるのかとぼんやり思う。
「幻妖の前にぼんやり立っているヤツがいるか!」
「べつに……」
 頭ごなしに怒鳴りつけれられて、意志の強そうな目をした少年を見あげ、ルーシェは皮肉な気分で笑む。
「どうせ死なないし。傷だってすぐ治る」
 いって押さえた己の肩に目を向けると、傷は半分くらいもうふさがっていた。見ている間にも人間では考えられない速さで癒えていく。だが、余計にディンは目を吊りあげた。
「そういう問題か!」

 一喝して、ディンは手に持っていた鞘から剣を引き抜く。しかし構える間もなく獅子の牙が襲いかかった。とっさに剣で受けとめたが、力ではディンには分がない。ブルッと獅子の首が、剣をくわえたまま大きく振られる。反動で少年の体が吹き飛ばされた。
 小さな体が、毬のように点々と跳ねる。だがディンは素早く立ちあがった。跳ね飛ばされても離さなかった剣を手に、幻妖へと向かっていく。
 走りながら剣を振りあげるディンに、ルーシェは肺腑が引きつる感じを覚えた。
 剣を振りあげる間合いが、明らかに遅い。剣が振りおろしたときには、すでに幻妖はその場にいなかった。
 容易く剣を避けた幻妖は、宙を切ったディンの左脇腹を、山羊の強力な後ろ足で蹴りつける。ディンは吹き飛ばされ、再び地面を転がった。

 剣が、少年には重すぎるのだ。ディンが脳裡で描いた間合いより実際の動きが、剣が重いために一拍遅れているのだ。
 脇を押さえ地面に倒れ伏したディンは、激しくせきこんだ。幻妖の力だ、今の一撃は十分死に値する。とっさに体をひねり、力を受け流したのだろう。運動神経は悪くない。受け身をとっているし、剣の構えを見ても一通りの技術は習っているようだ。
 ただ実践に慣れていないのは明らかだ。剣の重さにもだ。普段実剣を使わず、木でできたものを代用していたのだろう。
 だが、致死の一撃でなくても、あばらをやられているはずだ。もう見ていられなかった。

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