二話 遺跡の里5(ⅰ)

「ドレイクッ!」
 名前の主を求めて伸ばした手がむなしく宙をかいて、ディンは目を覚ました。
 伸ばした手の先を、ディンはじっと見つめる。夢だ、全部夢。わかっている。
 伸ばした指先を握りこんで、胸元に引き寄せる。何もつかめなかった指先が覚えた空虚は、あまりにも生々しい。自分の中で感情が処理しきれない。吹き荒れる感情は嵐のようで、ただ通り過ぎるのを待つしかできなかった。
 他のひとは夢にうなされ、嵐を胸に抱えて目覚めたとき、いったいどうするのだろう。求めたとき、傍にきてくれる相手を持つ者はいい。でも傍にいてくれるはずの親を持たない子どもを、ディンは多く知っている。そして彼女ももう……。夕刻に聖堂の前で会った、泣きながら去った女性を思い返す。彼女も傍にきてくれるはずの相手を失った。

 ディンはいつの間にかつめていた息を解放し、意識して体から力を抜く。意識してでなければ、自然体を思いだせないほど、肩も背も、体中が強張っていた。
 二日続けて悪夢で目覚めるなど、我ながらよほどまいっているようだ。仕方ないことだと自分でも思う。わずかな間に本当にめまぐるしくいろいろあったから、まだなに一つとして気持ちの切りかえなどできていないのだ。
 幻妖に襲われ、ドレイクたち仲間を失った。自分が生きて旅を続けていることが、ふとした拍子にとても不思議に感じる。死んでもおかしくない状況だった。いや、ルーシェとブリリアントが助けてくれなかったら、今ここにはいなかっただろう。

 壁の方へと寝返りを打つ。燃えさかる炎に呑まれた街。街から聞こえてくる人々の悲鳴と、落ち延びる一行。あの夢はいったい何だったのか。あんな経験、したことはない。昼間、司祭やルーシェにいろいろ聞いたせいで、その気になってしまったのだろうか。
 戦争――その二文字が最後に史実に現われたのは、六百年も昔。行われる戦争の数が徐々に減っていったのと、寺院が無名の一教団から一気に全国に名が知れ渡るようになったのは、ちょうど同じころである。だから学習会で少しは教わったが、まさか何百何千もの人間が死んだりするものだとは想像もしなかった。

 ――悲しみなんて、その辺にいくらでも転がってる。
 この世は多くの悲しみやつらさであふれている。一つ悲しみのもとが消えても、また新しい悲しみのもとができるのだろうか。幻妖がいなくなれば、戦争が復活するかもしれない。別の悲しみのもとが生まれるのかもしれない。
 だとしたら、果たしてディンのなそうとすることに、意味はあるのだろうか。

 寝転がったまま、とりとめもなく思考を巡らせていたディンは、ふと違和感を感じた。なんだろう。寝台の上で体を起こし、鼻をうごめかす。空気のにおいがいつもと違っていた。
 においのでどころを求めて目をさまよわせたディンは、隣の寝台を見て一気に血の気が引いた。寝ているとばかり思っていた隣の寝台に、ルーシェもブリリアントもいなかった。
 置いていかれたのかと、慌てて一人と一匹の姿を求める視界に、細く開いた木板の窓が飛びこんでくる。ディンは靴も履かずに寝台を飛び降り駆け寄った。

 窓を押し開いたディンは、ほっと息がこぼれた。窓の外、少し離れた場所には本来の姿に戻ったルーシェが、虚空を見つめてたたずんでいた。足元には、ブリリアントが同じように空を見あげている。見つけた姿に胸をなでおろしたのも束の間、ディンは異常に気がついた。
 鼻を突く異臭と、夢の中でも聞いた、遠く耳に届く低いうなりにも似た音。
 異臭は部屋の中にもしていたが、窓を解放した途端強くなった。ものが燃えるにおいだ。音は夢の再現かと思った。低くうなりにも似た響きは、火が燃える音だった。耳を澄ますと、炎の音だけでなく喧噪が遠く聞こえてくる。おかしな夢を見たのは、昼に聞いた話の印象が強かったばかりではないらしい。聴覚と臭覚が拾った現実を夢に反映していたのだ。

 ルーシェが見つめている方向は、泊めてもらっている僧房の向こう側だった。いくら窓から乗りだし身をひねったところで、建物の裏側など見えるわけもない。ただ空が煙にふさがれ、煙を幕に大気が赤く染まっている様子が、まるで丘の上で見た夕焼けを思わせた。
「火事か?」
 部屋に引っこみ、急いで服を着替えながら声を張りあげると、空を見上げたまま、いや、と、応えが返る。その声は、返ってきたのが不思議なぐらい、心がここになかった。
「違う――幻妖だ」
 振り返ったときには、華奢な姿はない。窓に駆け寄り身を乗りだす。しかし見上げた空にも見つけられず、ただ建物の角を曲がっていく薄桃色をした背中がかろうじて目にはいった。ディンは舌打ちする。急ぎ着替えを済ませると、剣だけを握って部屋を飛びだした。

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