一話 大志を抱く少年1(ⅲ)

 雨ではないとすぐに気がついて、ディンは震える己の体を抱きしめた。
 地を打ったのは雨滴などではない。一撃にて粉砕された幻妖の頭部だったのだ。粉微塵にされた肉や骨が、体液とともにばらまかれる音だったのだ。
 証拠に、腹を見せて倒れた幻妖の体に頭部がない。

 一瞬で幻妖を屠れる人間など、この世に存在しない。
 もとより、空を飛べる人間も、幻妖を恐れさせる人間などもいないのだ。

 幻妖の体が揺らめいた。ゆらりと、熱気のむこうに景色を見るように輪郭がぶれ、徐々に体が透けはじめる。
 光に解けるように、姿がおぼろになっていく。まるでその存在が夢幻だったかのように。その名の由来のままに。

 幻妖が消えさるまでじっと様子を見つめていた彼女は、地に降りると振りかえった。
 鼓動が痛いくらいに跳ねた。
一瞬にのどが干あがり、体は強張る。ディンは顎をひくと奥歯をかみしめ、振りかえる彼女を見つめた。

 ふり返った彼女の瞳は紫――幻妖だけがその身におびる色だ。
 やはり――と、ディンは思った。やはり彼女は人間ではなかったのだ。

 けれどディンはその恐ろしいはずの紫の瞳を見つめていた。いや、目をうばわれたというほうが正しい。
 重たげなまつげに煙る紫の目は、涙にぬれていた。

 水晶のかけらのようなしずくが、白い頬をすべりおちる。
 次から次へとこぼれるにまかせたまま彼女は歩いてくると、ディンの足下にいる仔ブタの前で片膝をついた。そして立てた膝へと額を押しつける。
 こぶたが心配げに、声もなく涙を流す彼女に鼻面をよせた。

 信じられなかった。
 華奢な体で、自分よりはるかに大きな幻妖を一撃で屠る力をもっているのに、ぽろぽろと涙をこぼしている。
 一人と一匹を様子を見ていたディンは、一度唇を引きむすぶと意を決して口を開いた。

「何故、泣いているんだ?」
「泣きたいから」
 顔も上げず、ぶっきらぼうな答えが返ってくる。仔ブタがじろりと、険しい視線を送ってよこした。
 とがめられているのかもしれない。だけど気にかかる気持ちのほうが強かった。
「どうして泣きたいんだ?」
「悲しいから」
「どうして悲しいんだ?」
 さらさらとかすかな音をたてて髪がこぼれた。顔は見えなかったが、彼女がディンを見ようとしたのか、膝によせたままの頭が少しだけ動いた。
「あのさ、泣きたいときくらい好きに泣かせてくれる」
 ふっと一拍おいて、険のある声がいった。それもそうかと、ディンは口を閉ざした。
 かわりに、となりにしゃがみこんで、少しだけ躊躇して、でもやっぱりそっと手を伸ばす。

 幻妖といえば、手負いの獣みたいなものだと思っていた。凶暴で、意思の疎通などとうてい望むべくもない、荒れ狂うだけの存在だ。
 彼女がそんな幻妖だとしても、ディンにはもう恐ろしいとは思えなくなっていた。
 もし幻妖を一撃で倒してしまう、すさまじい力をもっていなければ、紫の目をしていてもただの人間だと思ったかもしれない。
 彼女のような幻妖を、聞いたことがなかった。

 細くてなめらかそうだと、想像していた。想像通りの手触りの髪にふれると、人型の幻妖は少しだけ身じろいだ。
「子どものくせに」
 小さくそう呟いたが、彼女はディンの手を払いのけはしなかった。

 変わった幻妖だ、と、そう思った。

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