Ⅱ.長い夜の始まり(ⅱ)

 壁に体を押しつけるようにして、セイランは立ち上がる。もう祭社から社兵が出て、自分たちを捜しているだろう。アリアのために、せめて社兵の気を引きつけておきたい。
 だが数歩もいかず均衡を崩し、セイランの体は湿った地面に投げ出された。体を貫いた痛みに、体をくの字に折って呻く。
 歩くこともままならない自分に苛立つ。死ぬにしても、身元が割れないようにしておかなければならないのに。そうしなければ、あの子に迷惑がかかってしまうというのに。
 きっと泣くのだろうあの子の泣き顔が脳裏に返り、セイランは苦く口元をゆがめた。
「もう一度会いたいなんて、私もたいがい欲張りだな」
「何をしてるんだ、こんなところで……ッ」
 思考が他者の気配を遠ざけていたのか、それともすでに朦朧とし始めているのか、唸るような声に初めて他人の気配に気づいた。
 祭社のお仕着せの黒の外套をまとい、大剣を背負った既知の巨漢に、呆気なく見つかってしまったとセイランは肩を竦める。

「やあ、ワーレン。ご機嫌……よろしくはないみたいだね」
「何がやあだ! 自分のところの坊やも領地もほったらかして、何してやがる、こんなところで」
 抑えた声で怒鳴りつけ、起き上がる力もなく転がったままのセイランの顔の横を、ワーレン・ハイグは激した感情を持て余して蹴りつけた。セイランは平然と受け止め、巨漢を見上げる。
「何って……それは私のセリフだろう?」
「のうのうと! こんなとこで死にかけてるおまえに、そんなこと言われたくな……」
 胸に渦巻く想いに声が揺れ、語尾が掠れる。それを苦々しく思うのか奥歯を噛みしめ、ワーレンは体の横で握った拳に目を落とした。
 彼がくれる情に笑もうとして、けれどセイランは失敗した。
「セイラン!」
 不意に咽喉を競りあがってくるものに、セイランは背を丸めて咳きこんだ。膝に抱え上げるように抱きこみ、ワーレンの無骨な手が精一杯の優しさで背をさすってくれる。

 口元に当てていた手は、手袋が重く濡れていた。それが何かは、口の中いっぱいに広がる鉄の味に、わからない振りもできない。セイランは一度血のついた手を握り締めると、ワーレンの二の腕をつかんだ。
「ワーレン」
「もうしゃべるなセイラン」
「聴くんだ、大事なことだ」
 案じてくれるワーレンの言葉を聞かず、セイランはつかんだ腕に力をこめる。
「今の青龍祭社はおかしい。どこがと言えるほど私は事情を知らないが、祭社は不可侵だ。それでも私がここにいるのは神託があったからだ」
「まさか……赤龍神がか?」
 目を瞠ったワーレンに頷いて、セイランはワーレンの黒い目をのぞきこむ。
「何にもかもアリアに押しつけ、それで済む問題じゃない。本当にこれしか道はなかったのか?」
「セイラン……」
「私たちはなんのための存在だ、ワーレン。衛士(えいし)である誇りを思いだせ」
「……ッ」
 内心の煩悶を見透かす言葉だったのか、動揺も露にワーレンが身動ぐ。セイランは口元をほころばせた。
 迷う心がないわけではないのだ。だったら大丈夫、まだ道は幾らでもある。
「もう行って。部下が呼んでる」

 つかんでいた腕を放して、セイランは自分のものとは比べ物にならない厚い胸を押した。彼の背後から、上官の名を呼びながら足音が近づいてくる。
 セイランと声の方とを見比べて舌打ちすると、ワーレンは外套を脱いだ。
「必ず助ける。だからしばらく持ちこたえろ、セイラン」
 外套でくるんだセイランを道に横たわらせると、ワーレンは足早に去っていく。彼の後ろ姿は滲んで、もうあまりよく見えなかった。
 かわりに浮かぶのは、セイランを責めてか、あの子の泣き顔だった。
「笑って欲しいのに……」
 何度思い返しても泣き顔しか浮かばず、そんなにも泣かせてばかりだったかと、己の不甲斐なさに嫌気がさす。なのにまた泣かせてしまうかと思うと、本当にどうしようもない。
 だがこれで最後だと思うと、嬉しくもあり、寂しくもある。
 心だけでも帰れればいいのにと願いながら、セイランは祈るように目を閉じた。

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