Ⅱ.長い夜の始まり(ⅰ)

 その路地は深く闇に沈んでいた。見上げた空は晴れていて、星明かりを霞ませるくらいに月は明るかった。だがその月光が、密接した建物の影を黒々と落としてなお暗い。
 路地にはすえたような異臭がしていた。ただ今は、むせ返るような血臭が異臭を圧している。湿気にいつでもじっとりと湿った地面に座りこんだ、黒髪に、どこか異国の血が混じっているのか緑柱石の色の目をしたセイラン・エイセスがその臭いの元だった。
 年の頃は二〇代後半。額に布を巻いた整った顔の右半分は血に赤く濡れ、対照的に左半分は貧血を起こしているのか蒼褪めている。
 セイランが座り、寄り添う大きな青石の額飾りをつけた少女が膝立ちで、ようやく彼女の方が目線が高くなる。その目を下からのぞきこむように、セイランは座ったまま身を捩ると、少女へと顔を近づけた。それだけの動作で体のあちこちが涙がでそうなほど痛んだが、意志の力でねじ伏せて少女と目をあわせる。
 本人はとうに麻痺したが、近づいた分だけ強く血が臭ったのか、少女が眉根を寄せた。
 闇と出血と、その血がご丁寧に目に入ったために、目を凝らしたところでたいして見えはしない。そのセイランの目にも、誇りにまみれ、丁寧にくしけずられていた艶やかな黒髪が乱れ、すらりと伸びた白くて細い手足に血が滲む少女の姿は、痛ましく映った。

 アリア・サース。
 セイランは彼女のことをよく知るわけではない。年に一度、年初めに都で顔をあわせる程度のつきあいでしかないからだ。けれどそれだけのつきあいを、もう一〇年続けている。
 初めてあったのは、彼女が五つの年だったか。同世代の子供たちよりも一足飛びに大人になろうとしているかのように、彼女は毎年会うたびに前回よりも大人びた顔を見せた。足早に子供らしい笑顔を忘れていく彼女の、時折見せるうつむき加減にはにかむさまを、とても好ましく思っていた。
 けれど今の彼女の黒い目には、笑みなど忘れたような、深い傷だけがあった。
 彼女の傷に拍車をかけてしまったかもしれないと、セイランは危ぶむ。だが後悔は先に立たず、言い訳するなら、思いもしなかったのだ。
 まさかアリアを連れているのに、掌眼(しょうがん)を向けられようとは。

 きつく噛みしめたアリアの唇をほどきたくて、セイランは黒い手袋をつけた手を伸ばし、親指の腹でそっと唇をたどる。
「行って?」
 かすれてしまった声に舌打ちし、セイランは声を整えてから言葉を続ける。
「望みを、叶えておいで」
 澄んだ黒い瞳がじっとセイランを見つめ、そして伏せられた。アリアは何も言わないまま、セイランから視線を逸らして立ち上がる。
「赤龍祭社(せきりゅうさいしゃ)だ。わかるね?」
 硬く強ばった横顔がセイランを見ないまま頷き、小柄な体を翻した。
「君の上に、いつも瑞獣神(ずいじゅうしん)の加護がありますように」
 背中にかけた祈りの言葉に、弾かれたように振り返った。一瞬見せたアリアの表情に、セイランは顔をしかめた。
 闇に沈んだ路地の所々に、店の裏口らしき木戸から漏れ出た光が、置いてあるのか捨ててあるのか判然としないものたちをまだらに照らしだしている。足を取られるものに事欠かない路地を、アリアはもう振り返らずに駆け抜けていく。
 小さな背を、セイランは身動ぎもせずに見つめた。振り返った少女が見せた表情が、頭から離れなかった。
 なんとも言い難い、複雑で壮絶な表情。

「あんな表情……させるなんて」
 うしろの壁に背を預け、詰めていた息をゆるゆると吐き出す。
 助けてあげたかった。そのつもりで訪れたのに、出発直後に棄権する羽目になるとは。挙げ句追い打ちをかけただけだったような気がする。
 一体、青龍祭社(せいりゅうさいしゃ)で何があったというのか。
 セイランはもう見えない背を、それでも目で追うように、彼女の駆けていった方向へと目をこらす。先に進ませたのはいいが、彼女一人ではそう遠くない未来、確実に捕まってしまうだろう。
 根っからの箱入りではないものの、それでも人生の大半を、彼女はお姫さまのように大切にされてきたのだ。追っ手を逃れ一人、赤龍祭社にたどり着くなど夢のまた夢でしかない。
 だがともに行くには、今のセイランは足手まといだ。

 光に撃ち抜かれた左脇腹は肉をごっそりと持っていかれ、我ながら立派な風穴が開いている。傷口は炭化していつ血が噴き出すともしれないが、今のところは出血がないことだけが救いだ。
 問題は飛竜が墜落したときにできた方の傷だ。無意識に左の腹をかばったのか、傷が右に集中している。
 額に巻いた布では受け止めきれない頭からの出血は、多いようにも思う。が、頭部は少しの傷でも大げさに血が出るものだと聞きかじったことがある。頭部は出血がない方がかえって危険だ。支障があるのは出血による貧血と、膝から下があらぬ方向に曲がった足。それから、息に空気が抜けるいやな音が混じっているから、たぶん肺に刺さっているだろう折れた肋骨だ。
 高さ自体はたいしたことはなかった。アリアを庇って受け身がとれなかったとはいえ、飛竜という衝撃吸収剤があった割にはケガが大きい。
「ドジったな、まったく」
 自嘲が、漏れる。
 死は遠からず訪れる。問題はその前に、何ができるか――だ。

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