Ⅰ.夕暮れ(ⅲ)

「聞こえなくなった」
シュレンティスの企みは半分だけ成功した。沈んではいないが明るさからはほど遠く、カザはむっすりと顔をあげる。
「一週間くらい前かな、何かすごい衝撃みたいなのが伝わってきて、以来聞こえなくなった」
耳というより頭に直接響いてくるそれを、カザは〈声〉と呼んでいる。だがそれは便宜上のもので、音を伴うものではなく、またなんと言っているのかさえよくわからない。
言ってみれば、知らない国の言葉のようななものだ。何かを希うような、祈りのような、そんな雰囲気だけが何となく伝わってくる感じなのだ。
どこの誰のものとも知れない、カザだけにしか聞こえない〈声〉。
子供の頃、生死の縁を彷徨ったことがあった。聞こえるようになったのはそのあとだから、一〇年ほど前からだろうか。
聞こえ始めた当初、〈声〉はとてもか細かった。年を追うごとに強くなったが、同時に複雑なものを含むようになった。旅を始めた辺りからはとみに強くなってきていて、最近に至っては、徐々に逼迫したものを帯び始めていた。
そして一月ほど前、決定的に何かが変わった。
願いも祈りもひどく切迫していて、追いつめられた感じがした。かと思えば何もかもを憎んでいるような激しい憎悪、すべてのものに投げやりな失望、目の前の事柄からの逃避、そして自己否定の〈声〉が昼夜の区別なく荒れ狂い、頭が割れそうだった。
けれど、それも一週間前の悲鳴のような〈声〉を最後に、不意に途切れた。

「何かがあったんだと思うんだ」
心配するカザに、さあな、と、自分から聞いておきながら興味なさそうに、シュレンティスは素っ気なく肩をすくめる。
「考えたってどうなるもんでもねえだろ」
「助けたいんだ。俺がすべてを投げ出さないでいられたのは、〈声〉のおかげだから」
「そんなどこの誰ともわかんねえようなもんに、よくそこまで思い入れができるもんだな」
「……悪いかよ」
「悪ぃなんて言ってねえだろ。だけど他人のことを心配する前に、まず自分のことをどうにかしねえとどうしようもねえだろ、おまえの場合」
「……う」
「校舎をぶっ潰してヴィストールは退学になるは、修繕費は一生かかっても払い切れねえほど莫大だは、かといって学んだものを生かして働けるほど、落ちこぼれの身じゃあ身についたものもねえだろうし……」
不幸というものは連帯意識が強いのか、いつも連れだって訪れる。一つうまくいかなくなると、何もかもうまくいかなくなるのだ。
このあともこれが続くのかと半ば決めつけ、もう儚くなるしかないと、すでに癖になっているなと思いつつも、手頃な木を探してカザは虚ろに目を彷徨わせた。だが手頃も何も生憎の草原地帯で、これを売れば金になるかもしれないと、彷徨った目はやはり癖と化して、黙って立ってさえいればピカイチの容姿を誇る相棒にたどり着いた。
「……おまえ、ロクでもねえこと考えてんな」
シュレンティスの胡乱な眼差しを否定できず、カザはがっくりと肩を落とした。ロクでもないどころか、人道に外れた極悪非道の行いを夢想していたからだ。
「落ちこんだってしょうがねえだろうが。水王にさえ会ってくれば借金はチャラにしてくれるって、学長が言ってんだし。個人的なことをどうこう言うのは、まずやることやってからだろ。借金さえさっさと返しちまえば、あとは晴れて自由の身なんだから」
「……おまえな」
わかっているからこそ急いでいるというのに、毎日グータラしている張本人に正論を吐かれては、言い返す気力もない。

「そういやさ、ヴィストールを出た頃からとみに〈声〉が強くなったっつうことは、ソーレルに近づくにつれってふうには解釈できねえか?」
「ソーレルに?」
「旅に出た辺りから強くなってんだろ? それって、〈声〉の主に近づいてるってことじゃねえのか?」
「あ……」
言われて初めて気がついて、カザはぽんと手を打った。
「そうか」
「ソーレルにいるかどうかは別にしても、方角的にはあって……」
「シュール?」
唐突に言葉を途切れさせると、シュレンティスは足を止めた、訝ってカザも立ち止まる。そして、一点を見つめる相棒の視線の先を追って目を凝らした。
夕日の下では優美に見えた城が、薄暮の空に黒々と威容を誇っている。
「鐘が鳴ってる。さっきのとは違う。警鐘だ。祭社で何かあったな」
シュレンティスの潜めた声に応えるかのように、祭社の黒々としたシルエットから小さな影が一つ飛び出した。小さい影は一度大きく旋回し、滑るように祭社を離れる。
それを追って一条の光が空を切り裂いた。
「――……掌眼!」
光にまともに撃ち抜かれ、浮かび上がった姿は飛竜だ。
飛竜は最も値の張る騎獣だ。馬などとは桁が違う。誤って檻から逃げ出した飛竜だという線は考えにくい。
「一足遅かったか」
整った横顔に、カザは思わず握りしめた拳を震わせた。真面目な表情はしていても、自分の責任などとはかけらも考えていないだろう。
「何を他人ごとみたいにッ。おまえがグータラしてなけりゃ余裕で間にあったんだぞ!」
「責任の所在を明らかにしてる場合か。遅れを取り戻すのが先決だ」
まともな言葉で自分の責任などすべて丸めて捨てて、シュレンティスはソーレルに向かい駆けだした。
「……俺の借金ッ」
黄昏の空を墜落していく飛竜を見つめて唸ると、カザもシュレンティスを追ってソーレルへと向かうしかなかった。

ゆっくりと運命の輪は廻り始める。
長い――長い夜の……幕開けだった。

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