Ⅰ.夕暮れ(ⅱ)

落ちたため息をどう誤解したのか、ここで寝るのか、とシュレンティスが嬉しそうに声をあげる。わかり過ぎるくらいわかりやすい相棒に、手袋をはめた方の手で少し癖のある黒髪をかき上げ、カザは根暗くフフフと笑んだ。
「……置いていくぞ」
ぼそりと落とした言葉の効果は絶大だった。シュレンティスは弾かれたように跳び起きると、顔を引きつらせ、脅えたように一歩後退る。
低い声を殊更低め、陰鬱な表情をつくり、カザはシュレンティスに目をやった。
「ここで寝たら確実に置いていくからな」
「や……やめ…ッ」
何をそこまで脅える必要があるのかと、余人が見れば首を傾げる態で、シュレンティスは弱々しく頭を振った。カザとてこんなことをしたくはない。なのに自分にこんなことをさせる相棒に自然、陰惨さは増し、クククと平坦に笑った。
「こんなところで寝てようもんなら確実に人身(ひと)買いにとっ捕まって……」
フフフがクククに変わり、いつの間にかケーケッケッケと奇声をあげそうなほど、あまりのいやさに我ながらテンションは鰻上りだ。が、走り出した気持ちにいまさらブレーキはかからず、カザは一歩前に足を踏み出した。シュレンティスはいっそう怯えて、いやいやと涙目で頭を振りながら後退る。
「オ…オレがッ、オレが悪かったから……ッ」
「ヒヒジジイか娼館にでも売られて……」
「よせッ、言うなあ!」
「腹の突き出たおっさんに押し倒されて……」
「うわあぁぁーッ! やめてくれ頼むからやめろおぉぉぉぉッ」
そっちの気があったかつての学友から聞きたくもないのに聞かされた、男にとってはあまりにも恐ろしく身の毛のよだつ言葉の羅列に、シュレンティスはぱたりと地面に手をついた。しかしそこでうずくまっていてはおぞましい攻撃が再開されかねないと思ったのか、ひどく蒼褪めた顔で気丈に立ち上がる。
「わかった、行く。行くからそれ以上は言うな」
攻撃の威力の絶大さに満足しつつも、そのあまりの捨て身さにカザ自身のダメージも大きかった。お互い口を利く気力もなく、太陽はすでに没し薄暗くなり始めた街道を、よたよたと危うい足取りで進む。

声が途切れると、今まで気にならなかった水の流れが耳につき、カザは河に目を向けた。
ソーレルは世界でも有数の大河だ。蕩々と流れる水の量は、カザが子供の頃見たときとそう変わらないように思える。河の縁の黒く色の変色した跡だけが、減水したことを教えている程度だ。
しかし研究者たちに言わせると、減水量は深刻だし、またかなり濁ってもきていると言う。そしてそれはソーレル河に限定したことではなく、一〇年ほど前から雨量が減り、西の方では目に見えて砂漠化が進んでいると聞く。
「なあシュール、鐘の音って祭社のか?」
「は? ――ああ」
ふとシュレンティスの益体(やくたい)もない愚痴を思いだし、カザは相棒を呼んだ。いまだ蒼褪めたままカザを見上げたシュレンティスは、すぐに独りでに納得して祭社へと目を向ける。
「風上だから聞こえねえのか。街の方から聞こえてるからたぶんそうだろ。なんかスッゲェ不景気な音」
相棒の感想に苦笑して、カザもまた街の方へと目をやった。実際には耳に届かないが、朝な夕なに聞いた、どこか哀愁を帯びた響きの鐘の音はたやすく耳に返る。
ヴィストールに入学する前の一年ほどだが、カザはソーレルで暮らしたことがあった。父は生まれたときにはすでにおらず、母さえ亡くしたカザを引き取ってくれた養父の家がソーレルにあったからだ。
養父のことはどういうつながりでだか今はもう覚えていないが、出会ったばかりの頃にシュレンティスに話したことがある。だがソーレル行きが決まってからこっち、何も言わないところを見ると忘れているのかもしれない。会いに行こうと言われても困るので、カザも養父につながりそうなことは口にしないようにしていた。

「不便だな、人間って」
「は?」
「耳はよくねえ、かといって目がいいわけでも、鼻が利くわけでもなく、頭もさほどだろ。どころかカザの場合、落ちこぼれた挙げ句退学処分になるほどだし。身体的にもたいしたことねえのに、精霊たちに力を借りなけりゃ魔法も使えず、そのワリに好戦的ですぐに戦争をおっ始めるし、自分勝手で性格もよくねえ」
「お……おまえにだけは言われたくないな」
しんみりと語られた言葉が次々に胸へと刺さる。カザはよろめきながらも、しかし最後のセリフだけは聞き捨てならじと口を挟んだ。それに自嘲のような笑みを見せて、水属の精霊は遠くへと視線を流した。
「それでも人間が好きだっていうんだから、精霊たちもしょうもねえな」
内容はずいぶん失礼なものだが、そう語るシュレンティスの声はとても苦い。
彼が時折聞かせるこの声は、逃れようもない自分の性質を疎ましく思っているようだった。この相棒にもそういう部分があるのかと、カザを複雑な気持ちにさせる。
「そんなものだろ。生きてれば、ままならないことばかりだし」
自分もまた、他者に偉そうに言えるものなど持っていない。わかりつつも詮無い言葉を紡いで、カザは右手に目を落とした。
この指無しの革手袋は、余人の理解を拒むものだ。それが誰の目にあまりにもあからさまなのか、それともとてもそうとは見えないがもともと細やかな情を持ちあわせているのだろうか。言葉にしなくても右手に触れられることを厭うているのを知って、シュレンティスはいつもカザの左側に立つ。
今もその定位置から、そういや、と沈んだ空気を変えようとしてか明るい声をあげた。
「あの〈声〉はどうした? 頭痛は治ったのか?」

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